じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

母国語以外の言語を2つ以上学ぶということ

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我学汉语两个月过去了(私は中国語を2ヶ月勉強した)

 面白いもので、必要に迫られれば勉強は継続できるものなのだなとつくづく感じる。

 2016年の11月に今の会社に移ったとき、部署の100名を超える大勢の人の前で英語での自己紹介を求められるという衝撃的なイベントを受けてからあわてて英語の勉強を始めた。あれから2年半が経ち、TOEICのスコアも少しずつ伸びてきたし、ベンダのグローバルサポートチームとのWeb会議も、英語でスムーズにやりとりできるようになった。必要にせまられれば意外となんとかなるものだ。

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 中国語に関しては、ここ1〜2年、中国出身のメンバと仕事をする機会があり、彼らの言葉で意思疎通してみたいという動機から始まっていて、4月からNHKゴガクを使った勉強をはじめて今のところまだ継続中だ。中国出身の彼らはまだ若く、日本に来て間もないこともあり、日本語で仕事をするにはもう少し日本語スキルが足りていない。中国語や英語での意思疎通は不自由はないが、仕事は日本語がベースになっているため、日本語を勉強中である。業務の中で、日本語での意思疎通がうまくいかないときは中国出身のメンバ同士で中国語でフォローしあうこともあるが、このとき、言葉がわからず私だけ一人ついていけなくていつも寂しい思いをする。ここでスムーズにすっと中国語でフォローできるようになれたら、と思って勉強を続けている。

母国語以外の言語を2つ以上学ぶということ

 英語と日本語以外の言語を勉強するのは初めてなのだが、新しい言語を学ぶとき、2つ以上の言語を学ぶということは1つの言語を単独で学ぶよりも、さらに言語を深く学ぶことができるということがわかってきた。これはある意味、「新聞は一紙だけではなく、二紙以上読んだほうが良い」とされているのに似ている。

 新聞は単純に事実だけが書かれているのではなく、書き手、ひいては、新聞社の主観を交えて書かれているため、同じ事実を元にして書かれた記事であっても、新聞社によって切り口が違う。同一事実に対する複数の切り口の記事を見ることで、何が正しいのか、何が間違えているのか、新聞社が大切にしている思想はなんなのか、自分はその切り口に賛成なのか反対なのかと、より深く考察できるようになるといわれている。

 これを言語にあてはめると、まず、英語と中国語で文法や表現が似ている、違っている、などの差を楽しむことができる。さらに言えば、日本語が母国語である我々にとっては、日本語にも同様に漢字があるので、中国由来の漢字と日本語の漢字を比べて楽しむこともできる。漢字という文字にはそれ単体で意味を持つという性質があるため、中国語が全く分からない日本人であっても、なんとなく中国語の意味が分かってしまうというのも面白い。

あの漢文の意味を僕たちはまだ知らない

 今やもう懐かしい話ではあるのだが、当時は何の疑問も抱かずに、国語の授業の中で漢詩や漢文を習っていた。ほとんどの大学受験者が受けるであろう大学入試センター試験の国語の科目には漢文の問題が存在する。国語の中で漢文をテーマとして取り入れている理由はわからないが、中国語を学び始めた今、当時習っていた漢文との関係が気になり始めている。

 先日、中国出身のメンバーと、日本の国語教育の中に漢文や漢詩があることについて話をした。おそらく、孟浩然の春暁は中学校の漢詩教育の中で、多くの人が目にしているのではないだろうか。

春 眠 不 覚 暁 (春眠暁を覚えず)
処 処 聞 啼 鳥 (処処啼鳥を聞く)
夜 来 風 雨 声 (夜来風雨の声)
花 落 知 多 少 (花落つること多少をしらんや)

中国出身の彼の話しによれば、中国でも孟浩然の春暁は小学校のときに習うらしい。少し古い記事ではあるが、確かに教科書の必修項目になっているらしいことがわかる。「新版语文教材1-9年级必背142篇古诗文,附音频*1」この記事では、教科書の改革として、漢詩の割合が増えているということも書かれている。

 日本で習う国語の中では、やれこの詩は五言絶句の詩であるとか、やれ”鳥”と”少”で韻を踏んでいるということを習うのだと、そんな話をしていると、中国出身の彼は私にこうこう聞いた。

「中国語の読みがわからなければ、韻を踏んでいるかどうかわからないのでは?」

はっとした。

当時は、中国由来の読み方である音読みの”チョウ”と”ショウ”でオウという音で韻を踏んでいるのだ、ということだけをインプットされ機械的に覚えていただけで、なんの疑問を持つこともなかったが、確かに変だ。Mr.childrenでいうところの「lookin’ for love 今立ち並ぶ」の「ラブ」がかかっているとかいないとか、「Ticket to ride あきれるくらい」の「ライ」がかかっているとかいないとか、そんな感動は一切ない。本来であれば、1行5文字でたった4行で表現する詩という五言絶句しばりのなかで、孟浩然うまく踏んだなー!という感動があるべきところだが「音読みにすると母音が同じである」と聞かされただけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 中国語を学び始めた今は唐代の詩人らの詩に込めた思いや、技法についても気になり始めている。また、中国の書物をなんとかして日本人でも読めるようにレ点や一二点などの訓点を編み出した日本人の涙ぐましい努力にもいまさらになって気づき、おもしろくなってきた。三国志も、三國無双やったことあります、呂布つよ、くらいの知識しかないのでこれを機会にもっとじっくりふれてみようと思う。