じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

「『きっかけ』はよくわからない、でもそうしたいと思った」と言える勇気を

去年、前職で会社を辞める調整をしていたころに日本文学者のロバート・キャンベル氏がラジオ(伊集院光とらじおと 2016年8月29日放送)で話していたことが、当時自分自身が置かれていた状況と重なって印象に残ったのを思い出す。

「きっかけ」がないと納得できない日本人

伊集院「何がきっかけで日本文学を?」


ロバート・キャンベル「日本人はきっかけが大好き。それから、いつまでに何をやるのかというデッドラインが大好き、というのは日本人の特徴だと思う。きっかけというような決定的な瞬間はない」


伊集院光「考えたこともなかった。言われてハッとするのは、僕らは好きになるとか、嫌いになるとか、それはどうしてなのか、なぜ好きになったのか、嫌いになったのかを説明できないとダメな気がしてしまう」


ロバート・キャンベル「そう、だからきっかけは?と何千回も聞かれるけれど、その都度、きっかけはなんだったのかと言われても困ってしまう。きっかけは何だったのだろうかと。いろいろなことをやってきた中で削ぎ落とされなかったのが日本語であり、日本文学だったというだけ。それが今の僕の日常になっている。捨てていかなかったものが残っていて、それが面白くてずっとやり続けているだけ、でも、そう言っても誰も納得してくれない」
(伊集院光とらじおと 2016年8月29日放送 より)

目が覚めるような気持ちだった。当時の私はまさに「どうして会社を辞めることにしたのか」という質問を受けまくっていた時期だった。「どうして辞めるのか?」「なにか嫌なことがあったのか?」「不満は?」などいろいろだ。

もっと言うと、中途採用の面接でも同様の質問を受けるので、捏造してでもそれなりに万人が納得感のある「きっかけ」を語れる必要があった。でも、本当は「きっかけ」なんてない。「きっかけは?」と聞かれたとき用の「『きっかけは?』トーク」を創り上げていただけだ。
「面接用の『きっかけは?」トーク」、「職場向けの『きっかけは?』トーク」、「上司向けの『きっかけは?』トーク」、「Facebook投稿用の『きっかけは?』トーク」、どれもこれも嘘ではないけれど、核心でもない。

『きっかけ』はなくても良いし、語れなくても良い

「『きっかけ』はよくわからない、でもそうしたいと思った」と言うと、何だこいつ、なんにも考えてないのかよ、と思われるかもしれない。でも始まりはそれで良い。もちろん、『きっかけ』を求めるような会社の面接のような場面では、上記のようなでっち上げがそれなりに必要かもしれない。この場面では、「つじつまを合わせるシナリオ作成スキルが試されている」と思ってストーリーをでっち上げれば良い。ただ、「なぜかはわからないけれど、そうしたいと思う」という言葉にできない自分の心の変化を、言葉にできないからといってないがしろにする必要はない。むしろ、この微妙な心の変化こそが本質的な部分であると言っても良いのかもしれない。

「どうして?」「きっかけは?」という問いにはこたえられなくても良い。そうと思えば、少しは気持ちが軽くなるかもしれない。

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