じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

【コード・ブルー】救急救命という生と死の間の世界で 失敗と挫折から成長する20代の若き医師らに心打たれる

フジテレビでコード・ブルー 3rdシーズンの放送が始まった。コード・ブルーが好きだった私にとってはうれしい限りだ。

2週間ほどかけて、1stシーズン、2ndシーズンをFODでもう一度見返して、3rdシーズンの第1話と第2話を見た。コード・ブルーの概要についてはフジテレビの公式サイトのイントロダクションを参照して欲しい。コード・ブルーの面白さを自分なりに考えてみようと思う。

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コード・ブルーのテーマは「医療」ではなく「人の成長」

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コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-THE THIRD SEASON - FOD - フジテレビの動画配信サービス

コード・ブルーはヘリコプターで事故や災害現場の最前線で重症患者を救うフライトドクターのフェローら(候補生)を描いた作品である。もちろん、登場する現場は「医療」であることには違いないのだが、このドラマの本当のテーマは「人の成長」である。

医学部を卒業して研修医の期間を終えてから2〜3年外科医として経験を積み、フライトドクターのフェローになったと考えると1stシーズン、2ndシーズンは20代後半くらいの設定なのだろう(想像)。そのような狭きものをくぐり抜けてきた優秀な彼らも、救急救命という過酷な現場にあっては大きな挫折を味わうことになる。生と死のはざまで一分一秒を争う救急救命の世界では、医師としての技術はもちろんのこと、冷静な判断力、そして、常に死と向き合う強さが必要になる。

「人の成長」と言うと、フェローらの成長のことをイメージしてしまうかもしれないが、登場するフェローらだけでなく、彼らを指導するフライトドクターらも、患者らも含めて、登場する人間すべての成長が描かれている。ある意味では「全員が患者である」と言っても良い。誰もが心に弱い部分を持っていて、押しつぶされそうになるときがある。そんなときに、家族や同僚など周りの人々と助け合い、信頼し合いながら強くなっていく姿に心打たれる。コード・ブルー2ndシーズンまででは、フェローとして救命に携わるようになった若き医師らが失敗を重ね、挫折を繰り返すうちに、少しずつ自身に満ちた表情になっていく、そんな様子が描かれている。

現実世界で実際に挑戦して失敗して挫折するのは怖い。でも、本当は心の奥底では挑戦したいという情熱はあるんだ。そんな人にとっては、このドラマが挑戦・失敗・挫折・克服の疑似体験になる。

どうしても緋山に感情移入してしまう

コード・ブルー2ndシーズンまで見返してみてもやっぱり戸田恵梨香演じる緋山に感情移入してしまう。とにかく誰よりもヘリに乗り、多くの症例をさばいて成果を挙げようという考えしかなかった緋山が、医師としてのあるべき姿に思い悩む姿に、見ているこちらまで心をかき乱される。

自転車に乗っていた子どもと妊婦が衝突したという事故現場にドクターヘリで先輩医師と緋山は、先輩医師から出血多量の妊婦を任されることになる。若手ながらもこれまでの医師としての経験や、胎児心拍に関する論文の執筆も手伝っていたことからも、それなりに自信を付けていた緋山だったが、机上で学んだことと現場で起こる事実との違いに驚き、気が動転して、完全に手が止まった。緋山はどうすることもできずに「できません」と先輩医師にエスカレーションしてしまう。ドラマとしてここは、実にほんの数秒のシーンでである。でも、この瞬間に緋山の中には葛藤があったと思う。

「できません」と宣言するのにはとても勇気がいる。それは、「(私は無能なので何も)できません」という自己否定を意味するからだ。実際の現場で、患者を目の前に、緋山の医師としての自信は完全にへし折られることになった。

救急救命の世界では「何もしなければ患者は数分で死ぬ」。ドラマの中でこのようなシーンが繰り返し登場する。故に、自分にできないことをできないと早いタイミングで判断して先輩医師にエスカレーションするという判断はある部分では評価されるべきなのかもしれない。できないことをできないと認めることができずに、患者を助けられないくらいなら、助けられる医師にエスカレーションするという判断も間違ってはいないはずだ。

コード・ブルー1stシーズン第2話で、このような現場にあって「できません」と判断して、それを宣言できた緋山の勇気から、そのストーリー以降はどうしても緋山に感情移入してしまう。

もう一つ、緋山の話で外せないのは2ndシーズン第6話だ。緋山は事故により脳死状態になった子どもの人工呼吸器を意図的に取り外したとして殺人罪で起訴されそうになる。しかし、この行為は、我が子が脳死状態になり蘇生の可能性を絶たれ、悲しみに打ちひしがれている母親への緋山なりの配慮だった。

生きているとはいえ、意識を取り戻すことはなくなってしまった子どもの最期を目の前に悲しみに暮れている母親に、DNR(do not resuscitation)に同意させることは、母親にたいして「我が子を殺して欲しい」と言わせているようなものである。そう考えて、緋山はあえてDNRの同意書にサインをさせなかった。結果として、緋山は家族の同意もないのに人工呼吸器を外したとして患者の親族から「人殺し」とまで言われてしまう。

昔の緋山なら、医師としての症例数をこなすためなら患者の気持ちなど微塵も考えずに淡々とDNRの同意書にサインをさせていただろう。ところが、数々の失敗、挫折を乗り越え、医師として、人間として大きく成長したことが、この緋山の対応に顕著に現れている。

最終的には、子どもの母親とわかり合うことができるのだが、ただの紙切れ一枚。されど、その紙切れには命がかかっている。この世界は人の心でできている。人と人とが信頼し合って成立している。そのことは緋山が一番経験から学んでいると思う。

他のフェローらがまっすぐ育っていくのに比べて、緋山の挫折の度合いが尋常ではない。見ているこっちがつらい。心が折れる。だからこそ感情移入してしまう。

仕事の質を上げるには任せるしかない

コード・ブルー3rdシーズンを第2話まで見た。これまでの息を呑む展開が連続する作りではなく、ギャグまじりの恋愛ドラマのテイストが強めになっていて、やや短調で間延びした感じ。正直、テンポが悪い。

ただ、おそらくこのあたりは、3rdシーズンから入る人向けの導入なのだろうとは想像している。どれどれコード・ブルーってのはどんなもんだい、と初めて見た人に「突然の血がピュー」はつらかろう。ある程度の「ガッキーはやっぱりかわいい」くらいのジャブを打ち込んでおきたいのだろう。

テーマとしてはとても良い。おそらく私もターゲットのど真ん中なのだと思う。これまで先輩医師らの指導の元で自信を付けてきたフェローだった彼らが、今度は先輩医師としてフェローらを指導する立場になる。どんなにフェローらのデキが悪くても「自分でやったほうが早い」から「任せる勇気」にシフトするという一つ上のステージを期待される指導者になっていく彼らが楽しみではある。いつまでも優秀なプレイヤーでいると、チームは破綻する。だから、後進を育成する必要がある、というのが今回のテーマなのだと思う。

仕事の質を上げるには、任せられて、自分自身で考えて、自分自身で実践して初めて身になることを藍沢は強く意識している。それは、誰よりも藍沢自身が黒田からそのように指導されて育ってきたからだ。

第3話以降、単調だった第1話と第2話の雰囲気を吹き飛ばすほどの、息もつかせない手に汗握る展開と、彼らがさらに成長していく姿に期待。