じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

父親視点で読む 「かあさんのすきだった木(芭蕉みどり)」

 子供が生まれてから絵本を読む機会が増えてきた。せっかくなので読んだ本の中で良かったものは記録として残しておこうと思う。

ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 (えほんとなかよし)

ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 (えほんとなかよし)

「ぼくは  おかあさん いないから」

 ふたごのこねずみティモシーとサラが友達のリックとのいちごを摘みに行くところから始まる。ティモシーはふと、

「のいちご おかあさんに もってかえろう」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

 と言う。それを聞いてサラは、

「リックも もってかえる?」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

 そうたずねるけれど、リックには悲しい過去があった。

「ぼくは おかあさん いないから」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

 ティモシーもサラも聞いてはいけないことを聞いてしまったと思った。しかし、リックは意外にも明るい様子で二人に、

「ついておいでよ。 みせたいものが あるんだ」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

と話し始める。

 このお話は、幼いころに母親を亡くしたリックが悲しい過去を乗り越えたことをテーマとした物語なのである。

かあさんのすきだった木

 リックが二人に見せたかったのは、かつて、自分が母親を亡くした悲しみにくれていたころに、心の支えとなってくれていた「かあさんのすきだった木」だった。そんなことなど何も知らないティモシーは、

「なんだか……かっこわるいね」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

と言ってしまう。他の人には何の変哲もないただの木だけれど、リックにとってはとても大切な木であることをリックはティモシーとサラに語り始める。

「そうだね。 でも この木は ぼくには とくべつな木なんだよ」
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)


 この本のメインテーマは、「不幸にも母親を亡くしてしまった子供が、『かあさんのすきだった木』に足しげく通うことを通じて、いつも母親を心に感じ、いつしかその悲しみを乗り越えられた」ということで間違いはないのだが、父親である自分はどうしても、リックの父親に感情移入してしまう。

本当につらかったのはリックの父親だったかもしれない

 妻を亡くしてからというもの、息子のリックは泣いてばかりいた。ティモシーとサラに話すリックの回想でこのような表現がある。

 そのひから だんろを いくら たいても
 うちのなかは しーんと さむかった
 ごはんを たべるときも
 ひとつ あまった いすが いつまでも さびしくて
 ぼくは ないてばかりいたんだ
(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

 本の中では、リックが父親に「かあさんのすきだった木」に連れて行ってもらうという話として描写されているが、リックの父親の視点でこの様子を捉えると、かなり心にくるものがある。
 悲しいのは息子ばかりではない。とはいえ、自分もいつまでも悲しんでいても仕方がない。なんとかしなければ、そう思い立って、息子のリックを連れて「かあさんのすきだった木」に会いに行くことを決めたのだと思う。

「かあさんは このあたりの もりが きにいっていたよ」

「しずかで いいと いつも いってた」

(ティモシーとサラ かあさんのすきだった木 芭蕉みどり)

 リックの父親のこの言葉は、二人のデートの様子を想起させる。きっと二人は何度も何度もこの森を訪ね、「かあさんのすきだった木」を見に来ていたのだろう。もしかすると、リックを連れて来る前にも、亡き妻をたずねてこの木のもとにやってきていたのかもしれない。

 母親の死の悲しみを乗り越えたリック、一方、妻の死の悲しみを乗り越えたリックの父親。それぞれが、「かあさんのすきだった木」を通じて二人が「すきだったかあさん」を想っていると読むと、この物語はより深みを増す。