じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

地方出身の人はなぜか駅ナカの移動を徒歩ゼロ分と考えがち

大学を卒業するまで北海道で過ごし、東京で初めての社会人としての生活を初めてから5年ほど東京で過ごした。今はまた、都会の喧噪をはなれ、京都の田舎でゆったりと過ごしている。

最近、仕事やプライベートで再び東京を訪れることが何度かあり、久しぶりに訪れる東京にどこか懐かしさを感じた。東京のことを、華の都大東京となんて呼ぶような世代でもないが、やはり東京は昔からどこか一種の憧れのようなものがあり、就職して東京に出てきたときはなにか新しいことが始まるようなわくわく感でいっぱいだったことを思い出す。

同じように群馬の田舎から出てきた嫁に「どう、またもう一度東京で暮らしてみるのは」そうたずねると「いや、もう東京はいい」と即答だった。私も同じ気持ちだった。もう東京はしばらくいいかな。

東京に出てきた頃に驚いたことの一つは駅が広いことだ。新宿駅にいたっては新宿駅の中を歩いていくと新宿西口駅に到着するという、駅の中に駅ってなんだよと思ったものだ。田舎ではとても考えられない。

だからということでもないのだが、東京に出てきて間もないころは、なぜか駅ナカの移動は自分の中でノーカンになっていたことを思い出す。駅のホームに到着してから、目的地に到達するまでの時間、そして歩く労力さえもなぜか自分の中で考慮されない。駅についてから駅を出るまでの時間と労力を考える癖がまったくなかったので、東京に出てきて1年くらいは駅ナカの移動は徒歩ゼロ分という頭で暮らしていたかも知れない。この話を嫁にしてみたところ「わかる!」と言っていたので、地方出身者は共感してもらえるのかもしれない。

東京の暮らしが長くなると、田舎暮らしではもっていなかった感覚として駅の中の構造や、駅の出口に明るくなる。大江戸線副都心線は地下が深いからホームにたどり着くのに時間がかかることや、東京駅は丸の内と八重洲という2つの顔を持っていることもわかってくる。池袋は東口が西武で西口が東武で西と東が逆であることもわかるし、渋谷では目的の場所に応じて出口を選ぶことだってできる。

あの頃、駅ナカの移動を徒歩ゼロ分と考えていた自分が信じられない。